カギはどこだ? もしくは「アバカム」

元ねたはそれなりに雄大なentryである。人種差別構造の負のスパイラルから発展していく話題。前向きで結構すきだ。


そこでモーリーは相手の国を知ろうと思い立って韓国や中国に飛び込んでみることにした。

すると、意外にも、自分がその国にいることを楽しめていることがわかった。肌にあったのだという。食べ物はうまいし。

モーリーによれば、異国人との付き合いにはカギがあるのだ、という。それは暗号であり、現場の真っ只中に自分の身を置くことによってはじめて、これまでこの国はこうなんだと外から入れ知恵されたり、断片的に暴言を吐かれたり差別をうけたりしたイメージの空白がつながってくる。それだけではなく、もっと楽しい世界があることも分かってくる。モーリーの場合、そのキーは”食べ物”であったという。食べ物は接待のポイントでもあるし、よく理解できる話だ。

キーって「話のねた」ってことなのか? いや、もっとぼんやりとした、自分の興味の対象みたいなものなんだろう。同じ人間だ、って思えるものか。別の部分では風習も考え方も違うけど、その部分ではコミュニケーションしあえる。

知り合いの女の子とか、英語とかそんなに上手じゃないけど、人種とか関係なく気の合う人とはすぐに友達になってしまう、とかいってた。そうだったんだねえ、俺に必要だったのはそういうものだったのかもねえ。

さて、これを卑近にしてしまうのだが、これは別に異人種じゃなくてもそうじゃん。友達でも恋人でも。同じ日本人でも所詮は他人だ。考え方も違えば外見も違う。その中で付き合っていくには「カギ」が必要なんだろう。それがないと、コミュニケーションの共通軸がなくなってしまう。

逆に、そういう同じ日本人むけのカギを見つけられなかった人たちが集まって、「反韓」とかいうカギを見つけてよろこんでコミュニケーションしている、ってところまで書くと勇み足か。

だからってがんばってカギを見つけましょう、という風にまで思わない俺は相対主義だな。