感動ってことばも明治のころに作られたの?

はてブより:


んで、本題。感動した。涙が出た。そこまでは事実。じゃあ、

涙が出るほど感動する事は「良し」なのか。

「感動」に肯定的なコメントが多かったので、意外だった。同意するコメントつけようと思ったんだけど、書いているうちにややこしくなった。ので trackbackに変更。

やっぱり「感動」と「よさ」っていうのは別だよね。静かに、でも淡々とよい映画ってのもある気がするし。おれの少ない映画体験から言うと、「活きる」ってのはかなりいいんだけど、すごい淡々と。いや、あれもある意味感動かなあ。

でも「よさ」ってなんだろうねえ。特に映画を評論するときの。笑えたとか萌えたとかいろいろあるんだけど。でも「映画表現」ってものを考えたとき、それの狙う一つの目標として、観客に何らかの情動を催す、端的にいえば「感動させる」ってのもあるんだろう。一つなんて書いたけど、かなりでかい物として。

それを踏まえると「感動」する映画っていうのは映画として「いい」物なんじゃないだろうか。ナチ礼賛だろうが、エログロであろうが。社会として負の影響を及ぼすかも知れないが、映画表現としてはやる価値があったといえよう。

もちろん、それが俺やアナタの人生において「いい」体験であったかは別だ。ましてや人生をいい物にしてくれるかなんて。

ポストモダンにいきてる俺らには、一昔前の映画ファンが求めていた「よさ」を求めることなんてできないんだろうねえ。映画を語るときは、主語の存在しない「よさ」なんかより、俺を主語にして「すき」*1ってことを語っていこうと思った三十路の夏でした。

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*1:蛇足だけど、実は「すき」の主語は「俺」にならない、文法上は。「この映画」が「すき」だ、っていう風に、「映画」が主語になる。分かってるのに、こういう修飾をしてしまうあたり、おれ、英語文法に侵されてるな