池田くんと山形くん

先日の entryが久々にhot entry入りしたので調子に乗って書く。なんで池田先生も山形さんも傲慢で極論に走りがちなのに、俺は山形さんに贔屓するんだろう、って話。

これがみんなに受ける評論になるといいけど、本当の目標はエゴイスティックで「これを他山の石として、俺もアルファブロガーになるぜ!」だ。いや、アルファなんてえらそうなのはいやだから、斜め上を狙ってヘブライ語アレフブロガー...悪い冗談になってしまった。

閑話休題。ここら辺の差は人間としての理解しやすさから来るのかもしれない。

なんとなく山形さんの行動原理は理解できる。まあ、わざわざブログ書いて経済のことを書いてくれるのは、世の中をよくしようという心もあるけど、自尊心的な部分もあるだろう。その配合はわかる。俺も山形さんぐらいの知恵と行動力があったら同じことをやっているかもしれない。

山形さんのおかれた環境やポリシーとかから見て、ああいう多分に傲慢な話芸で突き放しつつ、でも実は啓蒙もしていくというのは非常に合理的な行動に見えるのだ。啓蒙なんてし始めればきりはない。それに噛んで含めるのがベストなわけもない。我々に費やせる労力の中で、考えるきっかけを与えてくれて、憤慨させつつも全体としては「読んで得した」と思わせる。それによって、実際世の中も彼の思っている風にすこしは進むのかもしれないし、「情けは人のためならず」風に自分にも面白いこともおこるんだろう。

だから誤解の多そうな表現とかがあっても、別にいいやと思ってしまう。「たしかに俺に噛んで含めるように説明するのは、あなたの責任じゃないし。限られた時間の中でよくやってくれている」と。

それに対して、池田先生の行動原理はよくわからない。何か合理的に見えない。端的にいえば頭が悪そうに見える。

もちろん池田先生も「啓蒙して世の中をよくしよう」って考えは持っているだろう。いや多分。きっと。望むらくは。

でもそのためにしてはあの blogはまずいんでないかな。間違っているのや曖昧なのを指摘するのはいいんだけど、それが一番池田先生の目標の効率よい実現手段になっているのかな。どんなに正しいことを言っていたとしても、それが理解されなきゃ、単なる「正しいことを言っていた」というアリバイ作りにしかならないんじゃないか。

まあ、こんなことを書くと池田先生は「うちの blogは月間50万PVある。政策担当者などにも影響を与えてる」というんでしょうねえ。そういう人たちに影響を与えるには「教授」という肩書きと「傲慢さ」の相乗効果が利くんでしょうか。

いずれにせよ、池田先生の blogや記事も考えるネタにはなるので重宝はしてます。ブクマのコメントに「読む価値がない」とか言うのもありましたが、私は読む価値は十分あると思います。ただ、もちろん是々非々の態度でいなきゃいけないし、考える時間もないので結局役に立たなくなっちゃうことはあるけど。

そうだなあ、山形さんのはちゃんと理解しなくてもその話芸で元はとったと思わせてしまう、そこらへんがいいのかなあ。ちと動物化してるな、俺。