モヒカンから遠く離れて

友人が間違っているようなことをいっているときに、諭してあげられるのがいい気もする。これは別にその人のためだけでなく、黙って聞いているとこちらまで洗脳されそうになるのというエゴイスティックな理由もある。いえないときは、ボソッと blogで書いてみたりして精神の安定を図ったりするわけだ。

とはいうものの、さらに引いてみるとそれは間違いというほどではなく、単なる感覚のちがいであるのかもしれない。もしかすると、その意見を伸ばしていけば、自分にも有益な面白い結論に友人がたどり着いてくれるのかもしれない。だとすると、その時点で反論して友人の考えを「矯正」したり、もしくは仲たがいしなかったのがいいことなのかもしれない。

そうやってちょっと非モヒカン的コミュニケーションについて思いをはせてみた。いや、よく読む blogにちょこっと突っ込みたくなったけど我慢している最中なので。