正直主義とその限界

メールを書いていてふと思ったのだが、正直に表現できれば物事はうまくいく、という思い込みが俺にはある。これを「正直主義」と名づけよう。

正直に書くのは案外難しい。雑念やかっこつけ、時間のなさなどが問題になる。書いているうちに自分が言いたいことではない文になっている。これもそうかもしれない。

でも書いているうちに、書いている文章のほうが正しいような気分になってくる。書いた文章がもったいないというケチな性分がそうさせるのかもしれない。その認知的不協和のために、自分の意見が修正されるのかも。

そいういった心理的カニズムに惑わされずに、まず文書に自分自身が惑わされず、そして惑わされたら消すことを恐れないようにしたいと思っていた。そのために文書技術を学んだ。

ここら辺、何か孟子性善説に近いものを自分では感じる。人はみんな善い事を行う。もし善くないことをしたとすれば、それは判断する知性がなかったせいで、善くないことを積極的に行うはずはない。その知性を磨くためには礼を学べばよい、と。

同じように、問題になるのは「正直になにかを表現できなかったから」である。それを解決するためには、正直に明確に表現するための技術を磨けばよい、と思っている。

自分がそういう思想につかっていたころは、そもそもそれが「思想」として客体化できるものだと気づきもしなかった。みんな、自分の間違った言葉に惑わされて生きているなあとぐらいにしか。

でも「正直主義」という名前をつけしげしげと眺めるようになった、ということはその思想に疑問を持ったためでもある。そうじゃない何かもあるだろうと。

あるのかな?
あるのかなったら。