差別: 人間社会のハウリング

差別に関する論争を見て、書こうと思っていたことを見事に書かれてしまった。俺ってまだまだ作文能力が低いなあと忸怩たる思いである。
とりあえず、一番おれが強調しておきたいところを引用しておく:

というより、偏見や先入観が動機となっているかどうかはこの際関係ない。社会的属性をもとに、社会構造と共鳴し循環するようなかたちで不平等な扱いをすることが「差別的」になるわけ。

macska dot org » 差別についての、ごく基本的な考え

敷衍した例

たとえば俺はゴキブリがかなり嫌いだ。読者の多くも嫌っていることと思う。「生理的に嫌い」って言葉がここまでぴったりくる例はないと思える。あのテラテラした羽と棘のある脚、多少つぶしてもはらわたを撒き散らしながら這い回る生命力。書いているだけで気持ち悪くなってくる。

でもそれは生理なんかじゃないと思う。何で俺がゴキブリを嫌うかといえば、俺の親が、親戚が、そして知人の多くが嫌っていたからだ。ゴキブリを嫌うためのバイアスが俺の周りにかかっていたからだ。それで従順だった俺はゴキブリを嫌うようになった。本能と思えるほどに。

本能ではないことは、ゴキブリを見たことがない北海道の人間が、ゴキブリをかっていたというような逸話でわかる。

ゴキブリならフマキラー金鳥が儲かるだけですむかもしれない。でもこれが社会的属性を持った人の集団に適用されたらどうなるか、ということだ。
社会のバイアスを受けて、差別的とも思わずになんらかのバイアスを自分のうちに形成してしまう。その程度には人間は柔軟だ。そしてそれを当然のごとく表現すれば、それは対象者には不利益となったりする。

なんともありそうなことだ。

自分語り

俺自身がこの原理に気づいたのは言葉狩りについてのよくある言動を聞いたことだった。「彼女は差別する意図などなしにキチガイって言ったのだから別に問題ないじゃん」という。

しかし実のところ「彼女の意図」は関係ないのだ。彼女の意図がどうあろうと伝わった言葉はいわれた対象を「キチガイ」というジャンルに当てはめる。そしてそれは正のフィードバックを受けてまた「キチガイ」という言葉を発することになる。キチガイのイメージは一人歩きし、本当の気違い (精神病?) とは違ったものとなる。

このフィードバックを断ち切るのに「キチガイ」という言葉を断ち切るのがベストであるかは、自分もよくわからない。ただいえるのはフィードバックがあるだろうということだ。

回路としての社会

俺やあなたが住む社会には情報のフィードバックがあり、イメージを定常させてしまう回路があるって事だ。ノイズか何かわからないものでできた信号は、正帰還回路にのって増幅され鳴りつづける。そう、マイクとスピーカが起こすハウリングのようなもの。

それをなくす事はできないのかもしれない。ひとつハウリングをとめても、また別のノイズからハウリングが生まれるのかも。いや、多分そうだ。

そうすると、差別というのはこの社会というシステムの抱えるバグ、構造的欠陥のように思えてくる。

つまり、差別は悪意のある人が利益を誘導しようと思って行うわけでもない。増してや、差別されている人に言われているほどの落ち度があるわけでもない。単なる社会のバグなのだ。

そんな社会のバグのために憎んだり泣いたりするのは悲しいことだと思う。社会に転がされてるだけじゃないか。自分も社会の中にいる身ではあるが、社会ってのはそういう不完全なものであるということを自覚していきていきたいと思う。

一緒にデバッグするのが社会2.0だぜ、というほど脳天気にはなれないのであるが。