東京とシリコンバレーと時代の差

シリコンバレーにいてベンチャーキャピタルの話とかをきくと、新しい事業にチャレンジする環境があるんだなあ、とうっとりしてしまう。変な言い方だが。
ベンチャーキャピタルは投資しても元がとれなくてもいいぐらいに思っているらしい。万に一つのあたりが出れば期待値はブラスになる。失敗した経営者も、普通のサラリーマンに戻るキャリアパスがいくらでもある。食いっぱぐれはしないのだ。こんな環境なら、挑戦をしなくちゃ損だと思えてくるじゃないか。
アンカテの記事を読んで昔の日本もそういう環境があったのかもと思えてきた:

右肩上がりの経済で一番楽なことは、投資に失敗が無いということだ。銀行から借金をして、土地を買い工場を立てる。経済が右肩上がりに成長しているから、その工場をヘタに経営しても儲けるのが楽だけど、それ以上に失敗した時の始末が楽であることが重要。黙っていても土地が値上りするから、しばらく待って土地建物を売り払えば、投資は回収できて借金は残らない。

ずっと高齢者のターン - アンカテ

essaさんは、そういうメンタリティが時代錯誤だといっているように見えるけど、ここシリコンバレーでは今がそういう雰囲気だということだ。すくなくともそこそこ学歴がある IT関係者なら。

いずれにせよ、自分が過去に書いた戯言が、まったくはずれていたわけじゃないようでうれしい:

逆に考えると、当時 (1960年代) の日本にはこういう歌がはやる下地、現在のシリコンバレーと共通した空気があったのかなあ、と夢想する。東京オリンピックのころだ。所得倍増計画もあり、未来を無限に信じられたのかもしれない。きっとそのころの東京の空は今よりもずっと高く、バルンガが浮かんでいたんだろう。

黙って俺について来い - ダイミテイ

まあ、俺は日本の現状を essaさんのように世代間対立として認識する気はあまりない。そういう閉塞感を抜け出すように自分が動いていたかもしれない。正しい分析なのかもしれないが、そういうのを意識するとルサンチマンにやられてダメになる性分なのだ、俺は。東京でも San Joseでも青い空を見上げるふりをしつつ液晶モニタを覗き込んでいたいとおもう。