自分の幸福度を上げるうえで、一番予測不可能なparameterは自分自身

『賃貸よりも、実は買ったほうがトク!』を批判してみる - 不動産屋のラノベ読み のあたりを読んで思ったこと。
必要なのはライフプランであり、それに沿った形の投資として家の購入を考えなくてはいけない、というのは過去の日記で書いた。

でも「ライフプラン」なんてエラそうにいうけど、多くの人はそんなものもってないんじゃないかな。俺だって持っているとはいえない。とりあえず目の前のいくつかの選択肢からだらだら選んできたらこうなっただけだ。

知り合いにちゃんと「ライブプラン」と言えるものを考えている奴がいて、そいつは40迄に引退して遊んでくっていくことを目標に、年収を上げつつ禁欲的に金を貯めていっている。将来の目標に関係のない浮世の義理はきりまくりだ。たしかにやつの目標からすると無茶苦茶合理的で、多分達成するだろう。俺も夢想したこともある生活なので、正直羨ましい。

でもそういう生活に踏み切れないのは、はたしてそれで将来の自分が幸せなのか想像がつかないからだ。今、遊ばずにやっていって、将来に遊んで果たして楽しいのか? 今できる飽食とか女遊びとか結婚・家族生活とかを諦めて後悔しないか? 優柔不断な自分はそこまで思い切ることはできない。

その一番の要因として自分がどうなってるかわからん、というのがある。将来自分はなにを幸せだと思うんだろう? 今と同じことを幸福と考えるんだろうか? はっきりいって自分の変化がさっぱり予測できない。小学生のころには 30台の自分がいるなんて SF小説のように思えた。1年前と比べても、思い返せば変わってる。そんななかで、数十年先をみたライフプランなんてできっこない。

そういうなかで幸せを合理的に求めるには、「自分」というパラメータを固定してしまうのが一番楽なのかもしれない。つまり自分の目標にブレないやつは合理的に目標を達成できて、幸せに近づけるのだ、という。しかし自分に自信がなくて、将来の自分を見据えられないと、そのための投資もできず、ぐずぐずと金と時間を使ってしまうばかりだ。

しかし逆に、「幸せ」のために自分の可能性を潰してしまっている気がしなくもない。極論すれば、カルトとかに嵌まってしまえば一番楽に自分の幸福度を上げられるのかもしれない。これはこれで不幸な話に思える。

将来の自分がどうなっているかを夢想しつつ、なるべく変な風に成長できるようにポジションを置いてライフプランの斜め上をいくようしよう、と思った。