愛の反対は憎悪ではなく無関心

一応科学ファンある自分としてはチタンで生体電流を整えるとかいうトンデモ製品を、かりにも nerd御用達と思っていた Gizmodeで見るとかなり萎えるというか、怒りのやり場もなくなってしまう。id:DocSeriさんがまとめてくれたニセ科学の数々をみても、やや暗澹としてしまう。

一方、日本の子供が科学に関心を持てないという事態もある。やっぱりこういう科学的素養のなさが、結論にすぐに飛びつくニセ科学の温床になっているようにも見える。

でも、実のところ、「ニセ科学」と「科学への無関心」というのは似ているようで違う。
ニセ科学」は「科学」に関心がないわけでも、ましてや「科学」が役に立たないと思っているわけでもない。逆に「科学」に (自分勝手な) 関心を持ちすぎ、(自分に都合よく) 役に立つはずだと信じ込んでいるのだ。ただ、彼らの「科学」は普通の科学ではなく、独自にアレンジされたものである。ただ、「科学的」であることは彼らのレゾンデートルでもあるのだ。

それに対し「無関心」はそんなレゾンデートルもいらない。科学的だろうがニセ科学だろうが同じだ。そもそも科学的思考を装う必要もない。どちらも自分の将来を幸せにしてくれそうもないし、理解しなくてもやっていけるものだ。

そう、愛の反対は無関心なのだ。現在の科学をそのまま愛せる主流派に対し、ニセ科学は科学になりたいと思いつつ科学を憎悪する立場だ。まだ科学に、勘違いした形ではあっても希望を見出しているのだ。

それに対して無関心派はちがう。もう、どちらもだれも自分を救ってはくれないという諦観がある。「あるある」を信じたりしない聡明さはあるが、かといってそれを批判する側も信用できない。夫婦喧嘩をする両親の下でずっと耐えている子供のようなものだ。どっちについたって明るい未来はない。一生懸命空気を読んで、自分の居場所を確保するだけだ。

そう、最初に出した対立だって、ニセ科学を推進してるのはいい年したおっさん、おばさんだ。そして科学に感心を持てないのは10台の若者だ。自分の頭の上で口角泡を飛ばして行われる論争に嫌気を差しているのだ。そして相対化されてしまっている。

そうかんがえると、やっぱり正統科学はニセ科学泥仕合をするべきじゃなく、正当に現在の科学の面白さを淡々と伝えていくべきなんだろうか。俺みたいな正確の悪いウォッチャーには泥仕合もそれなりに面白いんだけど。