チェーン日記に関する逡巡

岩田和輝君捜索願がチェーンblog 化しているらしい。もともとはチェーンメールであったようだが。

ちなみに、これが真実であるかどうかはチェーンメールであるかどうかとは直交した概念だ。本当にこのような事件があったとしても、自分自身で複製を訴えかけるようなメールはチェーンメールである。そういうわけで、俺としてはこれをチェーン blog entry (or 日記) だと断定する。

そして、俺のスタンスは「善意馬鹿。」というentryに近い。なにやってんだ馬鹿もん、ということになる。

でももしかするとそういう考え方はふるいのかもしれないな、とも優柔不断がポリシーの俺は思う。チェーン blogなりが広報の手段として合理性をもつ可能性もあるのか。

チェーンメールのころは、メールサーバを圧迫するとかいうのが問題として言われていた気がする。そもそも SPAMもあまりなかったころだ。あんなもので問題になっていたとはかわいい時代だ。

今の時代、CGMがはなざかりで、blogコンテンツを量産させる圧力がかかっているのに、そんなシステム上の理由を持ち出すのはアホだ。

制御不可能性

そういう意味で、チェーンblogのようなものを断罪する理由の一つは、その制御不可能性があろう。

Winnyに放流された情報と同じだ。一度チェーン化した情報は、発信者の自由にはならない。間違った情報、プライバシーを侵害するような情報もどこまでもいつまでも流れていってしまう。さらにコピーしていく過程で情報は改変される。そして、ミームプールの中、もっとも伝播力の高い (= キャッチーな) バージョンが増えていくよう圧力がかかる。

最近のものは、申し訳程度に情報源として URLが添えてあったりするが、そんなのは申し訳でしかない。多くの人が URLを参照して見るようだったら、そもそもチェーン日記にして内容をコピーする必要はない。そう、チェーン日記が効果を発揮するような人は、そもそもソースなど見ないのだ。

岩田君が無事保護され、通常の生活に戻っても、道端で善意で「いわたかずきくん?」と声をかける人も多くなるのでは。それが岩田君の生活に支障をきたさないか。

また、情報が錯綜しすぎて結局役に立たなくなることも多い。善意の第三者を多数かかわらせるのなら、それを受け止める覚悟を持ったものが相当数必要だ。結局屑情報しかあつまらず、重要な情報がそれに埋もれてしまうようでは意味がない。

チェーン日記を止められるか?

ということを踏まえた上でチェーン日記を擁護できるだろうか?

もしかしたら擁護できるのかも知れない。

別にチェーン化しなくても、ネット上に情報を公開したらそれを制御不可能なのは多かれ少なかれ同じだ。もちろん、制御不可能性も指数的に違うが、破壊力があれば影響もでかいのは mixi上でおこる数々のスキャンダルを見れば分かる。もしかして同列に並べるべき事象なのかも知れない。

そして、コピーされることを狙いとして作られ、blogosphereで受けいられているものもある。

そうバイラルアドだ。

バイラルアドも、どう流用され、どう改変されるか分からない。もちろん、それを覚悟していろいろな仕掛けはしてある。

逆に、チェーン日記とかもそういう仕組み、リテラシーを発揮させるような何かをうまく組み込めればちゃんとしたメディア、とはいかなくても公報手段になるんじゃないだろうか。情報元がちゃんと覚悟を決め、リスクをしり、それ相応の技巧を使う。そういうことができるのならね。そうすればコピペする人の偽善心もみたされ、情報も流通する三方一両得の世界になるんじゃないかしらん。

以上、逡巡の結果でした。

岩田君に件に戻れば、前提を満たしてなさそうだからやっぱりチェーン日記とかを使うべきじゃなかったと思うよ。母親が始めたので自己責任ともいえるけど、本人がひっかぶるにはちと大きな傷になるんじゃないかな。リテラシーのない素人でも、意図せずでかい結果を招けてしまうのがチェーン日記の現状の最大の問題なんだろうね。