「人」は殺してはいけない

「人だから殺してはいけない」のではない。逆に「殺してはいけないもの」を「人」と定義するのだ。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という人力検索をみて考えた。実は回答はちっとも見ていないのだが。

つまり「人を殺してはいけない」というのは定理ではなく公理、「人」の定義のようなものである。「任意の2点の間に直線を引ける」というのと同じだ。

まあ、別の公理から始めることもできて、「自分と同じような感情、主体性を持っており、尊重すべきもの」を「人」と定義する、としたほうがわかりやすいかも知れない。その場合「人を殺してはいけない」は定理になる。

実際、アメリカ合衆国建国時には黒人奴隷は「人」ではなかった。アメリカ市民である白人たちと対等な敬意を払うべき対象ではなかった。つまり、殺しても罪ではなかった。
現在でも問題になっている堕胎の是非については、「胎児を人をみなすか」ということに還元できるだろう。
ほかにも、子供や女性を「人」ではないのだから殺しても構わないという風潮は世界を見ればまだ残っているだろう。

赤ん坊から見れば、はっきりいって何が自分と同類なのかなど分からない。それは後天的に学習することで、段々と「人」という枠組み、当然殺してはいけない範疇を学んでいくのだ。

こうしてみると、問題は生物学的な「ヒト」と尊重すべき「人」の概念は一致するのか、ということに帰着できる。

実のところ、これについてはよく分からない。もしかして別であってもいいのかもしれないし、一緒でなくてはいけないのかもしれない。ジャイナ教徒にとっては「人」は生きとし生けるものだろうし、今のケニアのルオ族にとっては、キクユ族は「人」ではなくなりつつあるのかも知れない。

「ヒト」が「人」であり、かつ「人」が「ヒト」であるべきだ、と単純に言い切れないぐらいには自分はひねくれている。少なくとも、俺が生きているまわりではそうみなした方がいいのでそう思っているけど。