ポストモダンへの恐怖

大きな物語がなくなる。安心して頼れる神話がなくなる。モデルがなくなるわけで、一人一人が右往左往して自分の物語を見つけなくてはならなくなる。実際のところ、小さな集団へと分裂して、それぞれに神話をもち、緩く影響しあいながら続いていくのだろう。統一された共同体という幻想を抱きにくくなる。それを強行しようとすれば、ナショナリズムになったりする。

一つの神話という大地がなくなり、さまざまな思想の波間に個人は漂うということになる。一つの神話にしがみつき、そこから振り落とされたらまた別のしがみつく神話を探さなければならなくなる。溺れるものは藁でもつかみ、そして沈んで行く。一定数の人が溺死することを開き直って是認したシステムなんだろう。

Kurt Vonnegut は「猫のゆりかご」で以下のような詩を書いた:

おお、セントラル・パークで
居眠りしている酔いどれも
昼なお暗いジャングルで
ライオン狩りするハンターも
それから、中国人の歯医者さん
イギリスの女王様
みんなそろって
おんなじ機械のなか
ナイス、ナイス、ヴェリ・ナイス
ナイス、ナイス、ヴェリ・ナイス
ナイス、ナイス、ヴェリ・ナイス
こんなに違う人たちが
みんなおんなじ仕掛けのなか

なんだかんだいって、これは「モダン」を謳歌したものだろう。サブカルチャー風の皮を被りつつも、真っ当なモダニストヒューマニストだったのだ、彼は。それでいてモダンの行き着く先も知っていて、ディストピア小説を書きつつ、ニューヨークで転んでさっさと逃げちゃったんだろう。天上のだれかさんに好かれてたのか?

ポストモダンのなかでは、本当に自分と他人が同じ機械の中にいるのか信じられなくなる。貧窮問答歌のように、天や地が自分だけ狭くなったように感じる。物理法則はたしかにおなじなはずなのだが、かの人には一般相対性理論が適用され、自分には量子力学が適用されているように感じる。

そもそもいえば「全宇宙を支配する物理法則」なんてもの自体がモダニズムの産物であり、始まりであったのだろう。なんでも万物理論としての物理学は超ひも理論あたりで解決しそうだという。それとポストモダンは並行しているのかもしれない。