オープンソースと DISる温度差

拙文「オープンソースって誤解されるのがそんなにこわい? - ダイミテイ」に対し、生越さんがさらに反応してくれた。結果、「DISる」って言葉に対する感覚がちがう、っていうのが、違和感を感じた一番の原因みたいです。いや、ほかにも意見の相違みたいなものもありますが。

個人的には、DISるっていうのはかなり重い行為だと思っていた。自分の命、およびそれに準ずるぐらい大切な物が脅かされた時に、相手を全力をもって命をかけて排除する行為だと。刺し違えてもいいぐらいの覚悟で望むものだと。まあ、blogでは、ネット上人格が命をかけたってネット上から姿を消すぐらいなんで、相対的に軽くなってますが。

でも生越さんの DISるはそうじゃないみたい。なにか普通の批判とかの延長線上にあるように感じた。冷静に梅田さんの立つべき位置とかを見て大人の批判をしているようにみえた。

特に理解できなかったのは、立場によっては正しくもあることをいった人を「命がけで排除する」ということ。これも「DISる」はそんなに重い物じゃないと考えれば納得です。いいとこ「現在の評論家の地位から転落させる」ぐらいの意図か知らん。

「DISる」って言葉の使い方がどっちが正しいか何てのは分かりませんが、とりあえず個人的には納得しました。

で、あとはおまけみたいな物だけど:

そして、これは「極端な例」であってもそれを「実例」にしてしまう人達がいて、その集合には評論家や政策側の人も含まれてしまうことがあるという点で危険なのだ。もちろんこの「誤解」は解くことが出来るのだけど、させないで済んだはずの誤解を一々解いて回るコストはどう考えてもムダだ。

「利己的」という表現のマズさ | おごちゃんの雑文

そういうコストもありますが、「腑に落ちてオープンソースに好感もった人」「とにもかくにもよくわからないがオープンソースという単語を頭にいれた人」という利益もあるんじゃないでしょうか。やっぱりここら辺の評価の仕方は個人の感覚や経験によるところがでかいのかも。