地雷原にいる沖林さんを救えるのはだれか

朝から twitterなどで *n = 5などと流れていたので何かと思ったのだが、ZDNetに載った C言語のクソ記事はてぶでさらしあげにあっていた。

件の記事はソースコードを見るだけで弁護のしようもないものではあるけど、なぜこういう自体になってしまったかは微かに想像できる。なぜなら、自分も昔少しだけ出版業界の末席を汚してしまい、同じようなミスを犯しそうになったお調子者だからだ。

懺悔をかねて自分がたりさせてもらうと、10年たらず前、Linuxの技術記事を書かせてもらったことがあった。当時、自分は Linuxをほとんど使ったことがなかったにもかかわらずである。FreeBSDSunOSしか使ったことがない BSD厨だったのだ。大半は Unix共通事項であったので問題ないのだが、一部 Linuxに依存するところがあった。

私の場合は、編集者が Linuxギークであったため、入念なチェックを入れてもらい (というか当該部分を半分ぐらい書いてもらい) ことなきを得た。間違えた知識を得た読者はいなかったわけだが、それが自分の署名原稿として世に出てしまったことは恥ずかしいことではある。

こういう自体に陥ってしまう原因には「どうしても記事を埋めなくてはいけない大人の事情」や「適切な著者を探せない編集者のコネの少なさ」、「専門外なのに仕事を受けてしまう筆者のいいかげんさ」などがある。決して筆者の能力不足だけでなるわけではない。

自分の例であれば、編集者がちゃんとフォローしてくれるという確信があってこそできたことなのだが、今回の場合、編集者は味方の振りをしつつ沖林さんを地雷原に置き去りにしてしまっている。地雷を踏みこんでしまってもう足を上げることのできない沖林さんの胸のうちには色々な思考・感情が去来しているだろう。

もちろん、そんな地雷地帯につっこむことをしてしまった沖林さんの軽率さがせめられるのは当然であるが、沖林さんだけがせめられるのは、昔お調子物であった自分までせめられるようで忍びない。

そういうわけで、担当編集者らしいtomitaさん (さらにはその上司) もその責を負うべきであることは、今後の実名文化を支えていく上で認識されるべきことだとおもう。

二人で肩をくんで地雷原をサバイバルしていってほしい。

つけたし

以上、沖林さんが、今回の記事以外ではまっとうな技術記事を書いているという前提で書いた。ぐぐってみたところ、沖林さんは Java関係の著述が多いようで、Cのポインタの知識が足りないのにも関わらず、調子にのってしまったのだろうと想像した。多分、専門の方ではこんなことをしないのだろうと。

もしも、沖林さんが専門でも数々の地雷を踏み抜いてきた爆発五郎のような方であったのなら、まとはずれです。固有名詞を省き、編集者とはそういうものだという一般論だと読んでいただければ幸いです。

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