地獄への道は「おもてなし」で敷き詰められている

日本に帰ったときに、大手メーカーで携帯電話を開発している友人の愚痴を聞いた。
曰く、日本の携帯が海外に進出できない理由は、ため過ぎたノウハウにあるという。

その社の携帯電話では、キーイベントでも多少煩雑にも思えるハンドシェークを一々行っていたりするらしい。日本の女子高生の、機器に最適化され先読みされた超人的親指さばきに耐えるためだ。これをしないとアプリケーション切り替え時にキーを取りこぼすことがあるという。

キーのリピート速度なども、アプリケーションごと、キーごとに調節してあるという。Javaのような重めのものでは長く、対して文字入力が主体のアプリケーションでは短く、など。これらの数値は、今までのユーザの声を反映する形で決められている。

また、画面遷移、アプリケーション間遷移についても不自然な画面遷移がないよう、技術的な制限があってもユーザを適切に誘導できるよう細かく仕様が決められている。そして、そういった仕様を満たすために、ノウハウのつまった状態遷移テーブルが作られているという。

そうしたユーザの細かい要望を取り入れた、ユーザの意図に合う振る舞いをする携帯。まさに「おもてなし」の極致ではないか。

しかしながら、そういった「おもてなし」は現在の DoCoMoなどのオペレータの仕様、サービスに細かく依存している。欧米で必須である SMSや MIDPを組み込んだらちぐはぐな物になってしまう。それが日本が世界に誇る携帯電話が世界に進出できない理由の一つだとういう。自縄自縛に陥っているのだ。

以前、「「おもてなし」こそコモディティ化している」では主にサービス業における「おもてなし」を批判した。今回、サービスだけではなく、実際の製品にもそういった「おもてなし」症候群は現れているのだなあ、と実感した。

そいうわけで「おもてなし」は別に日本のソフトウェアに足りていなかった分けではないし、それが救世主になるわけではもっとない。逆にソフトウェアの競争力を削ぐものだ、といえるのではないか。

まあ、最後は「おもてなし」といいつつ、ユーザの思いつきのくだらない要望を実装するのがいやな自分向けの言い訳でもあるが。