携帯小説に手塚治虫はいるのか

まったく携帯小説というものを読んだことはない。ワタシ彼女とかいうのの最初の部分だけは読んでみたのだが読み進める気にならずに脳内積ん読状態だ。
でも俺が読めないという理由だけで排斥するのはいかんだろ、と自分の中の相対主義があたまをもたげる。30をすぎたオヤジなりに新しい表現として見ていかねばならないのかなあ。
翻ってみれば、今は国民的文化となった漫画にだって、それ相応のリテラシーが必要である。漫画を読み進める能力というものが必要なのだ。それを備えていない戦中派は電車の中で漫画を開く全共闘世代を侮蔑した。ケータイ小説リテラシーのないおれが、ケータイ小説を馬鹿にしたって、たんにメディアの違いを勘違いしてたという落ちにすぎないかも。
個人的には漫画の黎明期というのに憧れはする。
手塚治虫新宝島とかメトロポリスを書いてたころような。あくまでサブカルチャーとして、漫画というメディアが表面に現れずにその力を貯めていたような時代。過剰な期待を込めていえば、ケータイ小説はいまそんな段階なのかなあ。もうそろそろ劇画とかが立ち上がってきたりする時期だったりするのかなあ。