ピッタリした言葉なんていらない

ですます調で書きます。

知らない英単語を調べるのに英英辞典を使ってます。もちろん、衒っている部分もあるのですが、それはそれで実利的な利点があります。
日本語と英語は別に発達した言葉で、双方の言葉が一対一に対応はしません。というか、対応しない方が当然でしょう。
"come" を「来る」と訳して見たところで、"I'll come, soon" は「私はすぐ来るよ」となって日本語として変です*1
あくまで、英和辞典で出てくる日本語訳というのは、英語と日本語を同じ意味空間に射影したときに、なんとなく近くに来る点である、と思うしかないでしょう。
中学の頃使ってた英和辞典に「"by"は「よる」とほぼ同じ」とありました。側に寄るの "by" (A house by the river) も、実行主体を表す"by" (Written by hujikojp) も「よる」と訳せます。でもこれは単なる「だれうま」レベルの話です。「よる」と訳せない使い方だっていっぱいあります。ダジャレとして流さねばなりません。
これは"by" だけじゃなくて英和辞典全てに言えることでしょう。"come" と「来る」の訳にしても「はあ、うまい対応を考えたもんだね」ぐらいにとっておかないといけません。ましてや、より抽象度の高い訳に付いても尚更です。
英語から持ってきた外来語に関してはそうではない、と言いたいけど、カタカナにした段階で既に意味は変わっているので、やはりそういうもんです。

そういうわけで、英英辞典でわけの分からないまま英語は頭の中に止めておくしかないのです。単なる一対一対応より、どこでどう使われたか、同義語に何があるのかとかのほうが重要だったりもするのです。

まあ、英単語だけに限りません。ファインマンのエッセイの中に、鳥の観察をしていたファインマンが、父親に言われた言葉に以下のような意味のものがありました*2
カケスとかツグミとか、いちいち名前を教えることはできる。でも本当に重要なのは、あの鳥がどんな色をして、どんな風に鳴いて、どんな風に餌をとるのかとかだ。名前を覚えたってそういうことを知らなきゃ意味はない。
何となく、はてブとか twitterを見てると、いかにうまいことを言うのが勝負かのように思えてくるときもあります。でも、どんなにぴったり形容したように見えるうまいことでも、所詮ラベルでしかありません。対象となるものをラベルにとらわれずに見たいものです。

*1:九州の一部ではこういう使い方をするらしいですが

*2:うろ覚えですが