カウンターナレッジとブラックホールの蒸発

極東ブログのエントリを読んで思いついた与太話を忘れないうちに書くぞ。やらなきゃいけない雑用があるけど後回しだ。

カウンターナレッジというキーワードは恥ずかしながら初めて聞いた。いや、前にも聞いたことはあるかもしれないけど、現状を説明するのになんてピッタリしたキーワードだと腑に落ちたのは今回が初めてだ。適切な時に紹介してくれたものだと終風翁に感謝する。

こういう「正しくない」言説(と正しい言説)の生態系が、ネット社会が発展するにつれてどう変化していくかは、個人的には興味があった。「PDS」に文句をつけるvoidさんを思い出し正義は勝つのかと思いはしたが、逆に2ch的ネタ言論も隆盛を極めている。

一応、科学「崇拝者」としてニセ科学をなくしたいと思っている身には憎々しい存在であるカウンターナレッジであるが、なんではびこるんだろう。個人的には、自己顕示欲と言うか認証欲求と言うか、そういう人間の第4階層の欲求をエネルギーとしている気がして、自己満足でブログを書いている自分としては同じ穴のムジナかと嘆息したりもする。人間がそういう欲求を持っている限り根絶不可能なものであり、逆に変革をもたらすためには必要なものでもあろう。

となれば、ミクロ的に発生や力学などをみずに、それがマクロ的にはどういう振る舞いをして、「正しい」言説はどう変わっていくか、というほうに集中すべきだろう。が、それを思うと思い出すのがブラックホールの蒸発だ。

昔はひたすら周囲のものを吸い込み、何も放出しない存在として恐れられたブラックホールだが、現在の量子力学的解釈では、それすら永遠不滅とは言えず蒸発してしまうらしい。諸行無常。まわりにゲリラ的に発生した粒子・反粒子対によってエネルギーを持ち去られてしまう。

そう、近代社会で主流となった進化論などのメインの言説をブラックホールに、そしてカウンターナレッジを粒子対になぞらえてしまうのだ。どんな「正しい」言説でもいつかはカウンターナレッジのエネルギーに負けて蒸発してしまう。ローマ帝国がゲリラ的なゲルマン民族にやられていったように。

ここらへん、モダンの崩壊っていうか、大きな物語の喪失といっしょにして考えちゃう俺は中二病かもしれない。東浩紀が「ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。」っていってるのも、そういう文脈なんでしょうかね。まあ、もっと深いレベルの論争なんでしょうが。

でも、ブラックホールの蒸発のはなしって、「温度」とか「エントロピー」とか熱力学的な話がばしばしでてくるんだよね。本当に以下の引用が身に染みる(あけてくれ経由):

熱力学は、原子論がろくに確立していない時代に誕生したにもかかわらず、後からうまれた原子論や各種の量子力学相対性理論によって理論を再構築する必要に迫られたことが(今のところ)ない。それほどまでに熱力学の普遍性は高い。

2008-12-02

学びなおさねば。