blogはネタ化して、空気をよまなくてはいけなくなる

blogでもまずキャッチーな言葉でつかまなくてはいけない世知辛い時代になったというか。

勇み足というか、方向はいいのにベクトルがでかすぎてまた変な方向にいっている記事というのが増えたなあ、と感じた。単に最近目に留まった「「ユーザビリティ=使いやすさ」なんて誤訳をいつまで放置するのか?: DESIGN IT! w/LOVE」 と 「2004-03-13」 を例にしてみる。

前者は「ユーザビリティ=使いやすさ」は誤訳だ、という意外な内容の記事だ。いいたいことはわかるのだが、そこまでいうのはどうかと思う。書いた人も自らコメント欄で以下のようにいっている:

誤訳は実際には言いすぎです。

「ユーザビリティ=使いやすさ」なんて誤訳をいつまで放置するのか?: DESIGN IT! w/LOVE

俺も突っ込みたくなるのをおさえて、言ってる内容自体には納得がいくとしておいた。でも、これからまた「ユーザビリティ=使えるかどうかって意味だよね」って吹聴したりする半可通が出たりしないか心配だ。

後者は「天安門事件の虐殺で責められるべきは中国政府ではなくデモの学生リーダーだ」という論を追記で展開している。2004年のものなので最近のものとはいえないが。
いくらなんでも300人の殺人の責を学生リーダにまず負わせるのは無理がある。キャッチーな論にするために行き過ぎてしまった感だ。たとえ人民を虐殺させようという意図がリーダにあったとしても、したのは解放軍だ。

この事件の本質は、世界が当時信じた「善意の学生運動を政府が軍で弾圧した」という単純な話ではなかったのだ。

2004-03-13

自分でこういっておきながら、別の単純な話に置き換えてしまっているようだ。

双方の記事とも、根本のところは非常に有効だと思う。でも、まず目を引くためにか間違いといっていい敷衍をしてしまっているのが残念だ。記事全体を鵜呑みにできなくなり、いちいち検証するために雑念をもってよみ進めていかねばならない。まあ、「うそをうそと見抜けなければいけない」時代のリテラシーといえばそうなのかもしれないが。

帯域が絞られたテレビなどのマスコミと違って、文字情報程度ならほぼ無限に使えるインターネットではもっと上質の論評、落ち着いた記事が読めるものだと思っていた。コンテキストをしらない読者でも追っていけるように、論を丁寧に追い、データをそろえて。

でもそうではなくなって、やっぱりキャッチーなものが増えてきてしまっているのかも。発言される前提のコンテキストを捕らえて、「ああ、この程度の勇み足ならこの雰囲気のなかで啓蒙するためには許容範囲」と思わなきゃいけないのかも知れない。

帯域が増えたって、結局は「アテンション」って有限の資源を奪い合わなくてはいけないのだから。