日本人の努力に関する動物行動学

努力に関するネタが盛り上がっているみたいなので、前から思っていたことをダラダラ書いてみる。

個人的には「努力」は嫌い。好きなことだけやっていけたらいいと思う。プログラミングとか好きだったんで遊んでいたら仕事になったんでそれはよかった。ただ、「好きなことをやれば食っていける」ってのは万人に受ける方策かはよくわからない。俺がそれでうまくいったからって、他人に押し付ける程バカじゃない。生きるために、意識的な「努力」が必要な人がいるのかもしれないって傍観中。

ネコは満腹でも狩りをする

で、そいうことを考えていると思い出すのが「ネコは満腹でも狩りをする」という事実だ。日高敏隆著か訳かの本で読んだのだが、これは動物行動学的にも合理的なんだそうだ。

ネコの狩りというのは労力が多く成功率もさほど高くない。腹が減ったからといって狩りを初めていたのでは獲物にありつけず飢え死にする危険性が高い。そのために、腹が減っていなくても狩りを始め、食が進まなくとも嬲り殺すように進化した。そしてネコの頭の中には、「食事の為に狩りをする」のではなく「狩り」自体を快楽だとするような回路が作られてしまったのだと。それがじゃれつくのにも現れているし、意味もなく鼠を嬲り殺すのもそんな回路のせいだ。

業の深いことだ。

(一部の)人間は努力を強いる

これを敷衍して「日本人は努力自体を快楽だとするように進化しちゃったんじゃない?」ってことだ。

戦後の高度成長は「努力すれば報われる」って風潮を作り出した。経済的な成長は社会的な現象であったため、まったく意味のない努力であっても自分の生活はよくなった。単に毎日満員電車にのったりするようなことでも。

実のところ、努力していない人の生活も良くなっていたはずだけど、そんな人は享楽的で教訓なんか残さないからどうでもいい。

そういって、成功とどう結びつくのか分からない「努力」を強いるよう、日本の社会が進化しちゃったんじゃないか。よくわかんないけど「頑張れ」といってしまう。それがとんちんかんなものであっても。そして「頑張ったから(直接の成果は出なくても)ご褒美を上げよう」という。

もう高度成長時代じゃないので、その回路が日本人を取り巻く生態系に対してうまく働く確率は低いだろう。もうご褒美もそんなに出せないだろうし。

でも、ネコの進化だってネコという種が生き残るには有効だったのだ。もしかして「努力」回路もこのさき、「日本人」が生き残るために有効に働くかもしれない。

まとめ

でも俺はその回路に埋め込まれないように、享楽的に生きていきますよ。