漫画とアニメと高橋メソッド

以下のたけくまメモで、アニメーターの山村さんとの対談のことに触れている:
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_ca3f.html

「頭山」については見たいと思っていたのだが、まだ見ていない。Youtubeにないかな、とかおもったら見つけてしまった。非常に申し訳ない感じがするので、URLは紹介しない。何で、エバンゲリオンとかはいいのに、山村さんの作品は「上げちゃまずい」という感覚が自分の中に生まれるかは、もうちょっと考えてたい。

閑話休題。頭山の話ではなく、もう少し一般的な話だ。

ストーリーを語る手法としてのアニメーションというのは、自明のものではない。日本ではアニメが湯水のように消費されてしまっているため、その事実を自覚することは少ないけど、それを自覚し、意識的にかえていくのも「アートアニメ」の目的だろう。

漫画についても同じことが言える。ここらへんは呉智英夏目房之介 (や伊藤剛もあるのだろうが、読んでない) が言及している領域だ。
たとえば、コマの隙間。コマの連なりによって、静止した絵から動くストーリーを浮かび上がらせるためには時間が入らねばならない。その時間の入る余地こそコマのすきまである。あの空白で読者は間を取る。これはアニメにはない表現技法だ。

同じように、文章でも間は必要だ。ちょっと読者に考えてほしい場面、話題を変える場面、そんなときには間が必要だ。つまり、文章も内部にストーリーを持っている以上、時間が入る余地が必要で。

そんな時間を明示的に流してしまったのが高橋メソッドだったのかな、という気がする。そこでは読者が間を取る必要はなく、発表者が間を取って読んでいく。

考えてみるとプレゼンって何でもそういうものの気もするな。ただ、高橋メソッドではそれが顕著なだけだ。

うーん、単なる思い付きを書こうとしたら竜頭蛇尾になってしまった。まあ、未完成のアイディアを公表する場所でもあるんだからいいや、と開き直る私。Google様が要らないものだったらちゃんと振り分けてくれるだろう。がんばれ集合知