幸せなタモリ

タモリの、赤塚不二夫への弔辞を読んで思ったのだけど、ほんとに感謝してるんだな。つーか、そういう人をもてたタモリがややうらやましい。
自分は、タモリの初期のギャグはちっとも見ておらず、放送などできないようなものだったと噂で聞くだけだけど、そういう密室的な空間を共有できた師というのは死ぬまで離れられないものなのだろう。
タモリのそういう部分をロールモデルとしてみるのもいいかも。だれか一人でも弔辞をよませてもらいたくなるような師を作る。弔辞を読む立場になっても恥ずかしくないよう生きていく。感謝を心のうちに秘めて。なんか、凛と生きられる気がする。俺らしくないけど。

個人的には大学のときの指導教官は近いけど、彼は俺なんかに弔辞を読んでほしくないだろうからなあ。

配偶者xの献身

嫁に読めといわれた「容疑者xの献身」を読んだ。関係ないが、Anthyは何度も「検診」を第一候補に出してくる。お医者さんごっこのようでうざいぞ。

閑話休題。面白いことは面白かったが微妙だ。どうしたものか。
トリックは面白い物ではあった。論理的な数学者の作ったトリックと強調して書いてあるだけはある。
とはいうものの、結局の所失敗するのだからなあ。やはりちゃんとリスクマネジメントをして犯罪工学まで昇華させてほしかった。

結局の所、パズルとして楽しかっただけで、嫁の言うような「感動」を与えてくれるようなものではなかった気がする。

とはいうものの、そんなことを正直に言ってしまうと絶対不機嫌になってしまうのは目に見えている。嫁は「感動したねー」と同調する相手を欲しているだけなのだ。そのくらい、空気を読まないことを是としている自分でも分かる。

逆に言えば、石神のキャラに欠けているのもそれだ。自分が献身した結果、相手がどう思うか。それを考えないで論理的も糞もあるか。論理的には推し量れない「感情」というものがあるとちゃんと計算に入れておけ、ボケ。それを考えなかったら、結局の所押し付けがましいただのストーカーと変わりはない。

ストーリーでは靖子が感動に打たれるように誘導してある。でも、最初に自首しておけばよかったものを、隣の気持ち悪いストーカー男に教唆されたせいで、死体遺棄の罪まで背負い込まされたとも考えられる。靖子の心情次第では、それを恨むことだって充分あるだろう。そうなったら感動どころのはなしじゃない。

それよりなにより、嫁にどう反応すればいいかという難問を俺に背負い込ませたのがむかつく。なんかこの文章を書いたせいで、さらにこの作品のあらが分かってしまった。ロバの耳的に愚痴をこの匿名日記に吐き出して、明日はいい点だけを想い出そうと思っていたのに。なんか批判めいたことを言っちゃいそうじゃないか。

もう堅信でも検診でも謙信でもしてやがれ。

アメリカ人は大食いではない

アメリカ人 *1 は別に大食いであるわけではない。日本の基準でいうと大食いな方である自分は、こっちに来たら普通というわけではない。やはり大食いであった。

では、あのレストランとかで出てくる食事の量はなんなんだ、という話になる。答えは単純だ。全部食べる人などいない。さまざまな需要に答えるため、初めから大量になっているのだ。普通の人、少食の人は残せばいい。単純なことだ。

日本人は「残してはいけません」という教育を受けているため、つい頑張って食べてしまい、「量が多い」と文句を言うことになる。アメリカ人にとっては不思議な話だ。別に多ければ残せばいいのに、なんでそんなことで文句を言うんだろう? 「少ない」って文句ならわかるけど。

とくに白米が問題だ。アメリカ人にとって、白米は付け合わせ、サイドディッシュのコーン、極論すれば刺身のツマと同じだ。まったく箸をつけずに残したって当たり前である。一方、八十八の苦労とか目が潰れるとか教えられてきた日本人にとって、白米を残すなんていうのはとんでもなく後ろめたいことだ。一所懸命食べてしまって、食事の量を恨むことになる。

逆にきっと向こうの目には、平均的な日本人は大食いだと映っているかもしれない。なにしろあの大量の料理を残さずに食べたりするんだから。

*1:アメリカ人という人種がいるかは別にして

文脈と自由

日記の書き方に対する逡巡です。

キャラ恐怖症の元ネタは.. えーと、tumblrでみたハガキ職人のはなしだった:

意外なところでDPZ林雄司小野法師丸ヨシダプロの共通点は「ファミ通にネタ掲載経験がある」って話もDPZラジオで聴いたし。

web2.0ハガキ職人は、LANケーブルではない何かでつながっている。

意外なところでDPZの林雄司・小野法師丸・ヨシダプロの共通点は「ファミ通にネタ掲載経験がある」って話も... - otsune tumblr まとめサイト 画像保管庫Q

まあ、このネタから何で自分がハガキ職人にならなかったかを思い起こして、キャラに染まることの怖さを想い出したのだった。

で、こういう思い起こした元ネタってのは書いておいた方がいいのかなあ。自分にとっては、いろいろ付随した文脈を想い出すための重要なキーだし。「キャラ恐怖症」ってアイディアがどこから出てきて、なにを言いたかったかを想い出す。

しかし、文脈にとらわれずに一般化した方が良いこともあるんじゃないか。文脈に知らずに読むと色々発想したりするし。文脈がないと誤解を受けるかもしれないけど、ハガキ職人の例を出したって、それにまつわる文脈や感情を俺が想い出すだけで、読者は理解できない、というか変な情報を突っ込まれてさらに混乱しそうなだけだし。

そういうわけで、たんに思いつきのタネになった話題については、記述しないようにしようと思いました。そこの論理的なつながりを説明しようとしたくなるし、すると面倒くさくなるので。

でも、備忘録的にはメモしといた方がいいのかな。うーむ、悩む。

キャラ恐怖症

うけるものを書きたい気がする。そのために、つるんだりはしゃいだりすれば楽な気はする。他の bloggerの人たちと積極的にコミュニケーションをとったり、特定のネタにすかさず食いついて定評を得たりすればいいのだろう。
例えば、おれの得意分野で言えば、Unix系のネタを定期的に振っていったり。そうすればそういう系の読者を蓄積し、そしてブクマやスターも今より得られることだろう *1

でもなんかそういうことをすると、キャラが固定されそうで怖いのだ。ネットの上で「hujikojpはこういうキャラの人だ」と思われてしまう。もちろん、別にそう思われても気にせずに居ればいいのだが、せこい自分はそういうキャラをもったいなく感じてしまうたちで。きっとキャラから逸脱できなくなってしまう。

ここまで書いて、単なる臆病者の杞憂だという気が非常にしてきた。第一だれも俺のキャラなんか気にしてないだろうし。

まあ、でも非コミュの人の中にはそういう思いっていうのが結構あるんじゃないのかな。キャラ恐怖症っていうか。キャラは欲しいけど、キャラに縛られるのはやだって言う。

「キャラ」を意図的に演じることに労力を割かなきゃいけない社会の弊害じゃないか、って問題を大きくして放り出しておこう。

*1:実を言うと、最近はタンブられる方がうれしいが

売国主義

売国」というのが蔑称になっているというのは、重商主義的な時代錯誤じゃないか。売れば売るだけ価値の減るような国なら、さっさとつぶれてしまえばいい。
すくなくとも日本は売る物があるんだし、今ある物を売ったとしてももっといいものを作るだけの力はあるんじゃないか。
と、夜中にふと思った。